画家とは

画業だけで生計を立てている人、という言い方が一番分かりやすいかもしれませんが、正確には違うと思います。写真のなかった昔は絵のうまい人はとても重宝がられていたので、充分職業として成り立ちました。でも今の時代は絵がいくらうまくても画家で食べていくには無理があるようです。

私がかれこれ29年間所属する画壇の会にはおよそ200名ぐらいの会員がいますが、実際、絵だけで食べている人はわずかです。それも、おおむね絵を教えてその授業料を生計の足しにされているというのが実情です。

私の場合は37歳の時に画家宣言をしました。誰に宣言したかといいますと、家族にです。でも反対されました。「このローンはどうするの?」、「○○は私大しか無理よ。それでも画家になりたいの?」。家内にマンションのローンと息子の大学進学について一言触れられて、私は画家をあきらめました。でもその思いは募るばかりで爆発しそうでした。翌年、息子が東京の私大に入学したのを機に再度家内に「やっぱり、画家になるよ。心配いらん。会社をやめずに絵を描いていくから」・・・。多少の無理はありましたが、家族は私の強い思いを尊重してくれました。

私は古びた公団マンションをアトリエにして絵を描き続けました。3年で2DKの公団マンションは寝る場がないぐらいに絵であふれてきました。そして、淀屋橋の大阪府立現代美術センターで初個展をし、画家デビューを果たしました。

画家とはいつの時代であっても、専業であれ兼業であれ、自分は画家なんだと世間に公表しているかどうかで決まると私は思っています。絵が売れるから画家とか、絵がうまいから画家なんだ、とは違います。売れなくても下手くそでも描くことを生きる一番の理由にしている人は画家と言えそうです。

太宰の弟子で小山清という作家の「落ち穂拾い」という小説の一説にでてきます。主人公の私は毎日散歩の帰り道に古本屋に立ち寄ります。ある日、そこの女店員に「いつもありがとうございます。あなたは何のお仕事をされているんですか?」ときかれてまだ無名の主人公は「はい、小説家です」とはっきりと答えるくだりがあります。この時に「いや、ちょっと、文章を・・・」とか「いやあ名乗るほどでもないんだが、ちょっと物語を・・・」などという返事をすると、私は駄目だと思うので、この「落ち穂拾い」という短編を偏愛的に印象深い作品として位置付けています。

純粋芸術と商業芸術

純粋芸術とは絵画に限らず、音楽や映像等も含めて純粋に自分の思いのみで出来上がる作品なんで、ヒットするとか売れるとか、いわゆる流行は意識しません。

いまどき100号の油絵をいくら描いても食べていくことはできません。絵のうまい人はデザイナーやイラストレーターになりますよね。ここにはクライアントがいて経済を動かすシステムがあります。自分はこんな風に表現したいと願っても商品や雑誌の狙いが最優先されます。このように作り手としては少々ストレスは溜まりますが、ギャラが発生するので職業として成り立つわけです。こうしたジャンルで活動された結果の、例えば缶コーヒーのデザインなどは商業芸術と呼び、それを作り出す人を商業芸術家といえそうです。

もっと分かりやすく例えますと、文学なら直木賞作家は商業芸術、芥川賞作家は純粋芸術、音楽ならポピュラーソングは商業、クラシックは純粋といえそうです。

さて、自分はどちらに向いているかどうかなんですが、私はそこにあまり意識をとらわれないで、とにかく芸術活動を続けていくうちにいつのまにか、結果として、商業か純粋の領域に立っていたという方が望ましいと思っています。

抽象表現

抽象画の反対は具象画ですよね。

抽象画とは何を描いているのかよくわからないけど、「なんかすごい・・・」という風な印象があり、具象画とはとても上手に描けているので「このリンゴ食べてみたい・・・」という印象があるとします。私はそのどちらも非常に重要な表現と思っています。どちらが正しいとか、どちらが芸術としての格が高いという話ではありません。両方いると思っています。世の中の生業は抽象と具象の繰り返しといってもいいかもしれません。更に言いますと、暮らしと芸術の輪廻という言い方もできます。

そして、抽象表現とは夢のようであり、その根拠は説明できません。なぜそんな風になったのか分からないんですね。でも、心のどっか奥深いところから湧いてきたイメージやメッセージであることだけは確かです。もし説明や解説ができるとなるとそれは具象表現といえるでしょう。抽象表現だけでは生きていけませんが、そこにはなにか未知の素晴らしい生きるヒントが隠れているような気がします。

無所属ではなく画壇(美術団体)に所属する意味

純粋芸術活動を長く続けていくにはかなりの根気がいります。それを継続していく並々ならぬ強い意志が不可欠ですが、人間というのは弱いもので、時として時代の波や周囲の環境変化に影響を受けてしまいます。政治が悪いとか、給料が安いとか、身近な人との人間関係に苦しんだりします。そんなときよほどの哲人でない限り心は折れて落ち込んでしまいます。そうなると、世の中に何の役にも立っていない己の作品に自信が失せて、描く気力が萎えてきます。絵なんかよりも今日のパンに目が行って、描くことをさぼってしまいます。

こんなとき、画壇に所属していますと締め切りがあるので事務局から催促の知らせがやってきます。こちらの状況など一切関知しないで、秋の展覧会のスケジュールが届きます。実はこれが目を覚ましてくれるんですね。「あっ!俺は画家だったんだと・・・」。無所属だとこんなシステムはないので、いわば純粋芸術家にとって画壇に所属することは年会費を払っても、とても有効な環境維持機能といえます。

よって所属する団体の大きい小さい、あるいは歴史の古い新しい、有名無名はほとんど無関係であります。

365日、毎日の暮らしが作品に必ず出てしまう。

作品の出来栄えを左右するのは毎日の暮らし方と直結しています。出来栄えというのは自分が納得のいく作品のことで他者の評価ではありません。自分が信じ切って、これしか表現できないという作品には毎日の平凡な繰り返しの暮らしがにじみ出てきます。ですから、丁寧な暮らし方が基本になってきます。
では丁寧な暮らしはどうすれば身に付くのでしょう。1日を時系列で見てみましょう。

  • 起きた時にとる行動
  • 家族と目が合った時のあいさつ
  • 布団のたたみ方
  • パジャマの脱ぎ方
  • 目が覚めるまでのひと時
  • 顔を洗い歯を磨く
  • 朝のルーチンワーク(新聞、朝顔に水やり、ゴミだし、朝食準備他・・・)
  • 朝食
  • 朝食のかたずけ
  • 仕事前のルーチンワーク(化粧、歯磨き他)
  • 午前の仕事、または家事業

  • ランチの準備
  • 昼食
  • 一服
  • 午後の仕事、または家事業
  • 趣味等の時間、買い物他・・・

このように1日を朝、昼、夜という風に分けて、自分が毎日していることをだしてみますと、びっくりするほど人はたくさんのことをしています。ここにイレギュラーなことが起こりますと、そのつど自分の法律を基準に判断をして対応しています。

そして、その項目のひとつひとつに、丁寧、やや丁寧、普通、やや雑、雑というランク付けをしてみます。実際には毎日チェックしながら行動はできませんので、意識することが重要になってきます。毎日毎日丁寧を意識します。すると、それは無意識に身体にしみこんでいきます。これが、作品と関係してきます。よって、デッサンやクロッキー、美術館巡り、スケッチ取材は画家にとって当たり前の前提条件なんで、作品の独創性やオリジナリティとは関係してきません。自分にしか描けないかけがいのない作品はそれ以外の日々の暮らし方で決まってきます。

無意識のエネルギーがアーチストハイを生む

見えない心や意識を説明するときによく顕在意識、潜在意識という言葉を使います。顕在意識とは今生きている自分の立場やポジションを維持するための意識と考えてください。潜在意識とは今の自分が出来上がる以前、つまり生まれた時に持ってきた、備わって生れてきた意識のことをいいます。

そして顕在意識のことを有意識、潜在意識のことを無意識と理解されてください。このふたつの意識の間には境界があります。この境界はとても堅牢です。オギャーと生まれた時にはこの境界はありませんが、おおよそ8~9歳ぐらいで出来て、その後大人にになるにつれて分厚い境界(膜)になっていくといわれています。この話を聞いて私にも実感したことがあります。私が小学校4年の時、絵で賞を取ってきても母親は誉めてくれませんでしたが、算数で良い成績を取ってくるとおこずかいを倍にしてくれたのを覚えています。つまり、絵を人よりも巧く描くのが得意だった私でしたが、そんな私を母親は評価してくれずに、あまり好きではなかった算数の成績が上がるとおこずかいという人参をぶら下げてきたので、母親に気に入られる仮面を作りはじめたんですね。子供時代の出来事で意識の境界(膜)ができあがり、それはのちのちまでかなり強烈で堅牢な膜となって私に影響を与えてきました。

そんな境界の下に潜っている子供のような意識だけでは現実には社会人としてやっていけませんが、その意識が作品を描いているときに出てくるときがあります。無意識から湧いて出てくるイメージです。こう描けば見る人が喜ぶだろう、賞が取れるだろうという意識とはマ逆です。とても説明ができかねる線や色、形、構図のありかたに、手が止まらなくなり勝手に描いている感じです。この時の感覚はなんかふわふわした感じに包まれたように思えます。手や腕は腱鞘炎になりそうな痛みが生じているはずなんですが、とても気持ちはいいんですね。これこそが無意識のエネルギー(力)でアーチストハイとよんでもいいかと思います。これは計算や段取りでは得られず、ある時に突如、顕われてくるようです。

上手い作品と芸術性の高い作品は違う

グループ展や個展、団体展にいきますととても上手い絵が展示されています。それはまるで写真のような写実作品に多いようです。きっと小さいころから絵を描くのが得意だったので、大人になっても絵を描いて展覧会に出品されている人たちの作品と推察できます。

モチーフを狂いなく描く技量には感嘆しますが、さてそれが芸術性の高い作品とはならないようです。それは上手い絵、器用に描いた絵といえますが、観る人の心を打つ作品とはまた別のようです。

では芸術性の高い作品とはいったいどのような作品のことをいうんでしょうか。画家を公に標榜している方なら一度や二度、あるいはいつも、この命題については心や頭のどこかにひっかかっているようです。上手い絵、独創的な絵だけでは語れない芸術性の高い作品とは・・・。

これにはいくつかの視点がありそうです。フィギァスケートや新体操競技では芸術性を何らかの採点基準で数値化しているようです。そうでないと金、銀、銅、はきまらないので。でも絵画作品は、果たして芸術性を採点して賞を与えているのでしょうか?作品の善し悪しをある一定の採点基準で数値化してきめている会はきっと無いと思います。あるのは審査員が手を挙げるその数だけです。そこにはこの人は長く頑張っているのに賞にめぐまれていないので今回はその努力を買って手をあげてみたり、自分の支部会員だから仕方がないとか、語るには誠にお粗末な現状もあります。

思うんですね。ここには作り手側の視点がまず切り離せないと。画家がこれしかないと、これ以上の作品は今は描けない、いまはこれですべてを出し切ったから後はもう何も描けない。このような思いで出来上がった作品は芸術性が高いといえるかもしれません。その作品を展覧会に出品しても、だれも評価してくれなくてもいいんです。

次にたまたまそれを見た人のほぼ万人から「すごい、すごい・・・これはすごい」という評価が得られる観る側の視点も見逃せません。

次に画家の死後に見直されるケース。これも芸術性の高い作品といえそうです。つまり芸術性の高い作品とは、まず画家の視点があって、それ以外は副産物であるものの、そうした作品に共通しているのは時代を超えて観る側に多様な影響を与えているようです。ゴッホやピカソ、クレーなどは語らずともとても分かりやすい例だと思います。

賞を取ったり売れることは画家にとってはオマケ

そうなんですね。付録というかオマケなんです。画家の仕事は賞を取るため、売れるためじゃないんです。有名になるために描いているんではないんです。有名になりたいなら、いまの時代吉本に入ってテレビにでるのが近道です。テレビに出る数が増えればギャラはどんどん上がるしベンツにも乗れます。

ですから画家の仕事は地味で目立ちません。展覧会に出品しても誰も100号の油絵なんか買ってくれません。この画家の絵が好きだからサインをほしいなんて誰も言ってくれません。音楽ならコンサートを開くと拍手やアンコールがきますが、画家の展覧会場ではそんなリアクションはありません。小説家ならわずかでも本の売れ行きが目安にできます。

語れば語るほど画家の仕事は今の時代の世の中の生業とかけ離れているようです。人間の持つ素直な達成感とは程遠いようです。あるのは自分の描こうという強い意志だけのようです。

しかし、画家には自分を信じきる心の奥深さが養われ、自然と耐性が身に付き、まるで修行僧のようですが、激変する社会のスピードとは無関係のところで泰然と自分と向き合っています。時代遅れなやつだとレッテルを貼られてもひょうひょうとして生きています。その姿、風景は作品も通して静かに人々を魅了しているかもしれません。

私は3歳になる娘が通う保育園のママやパパ友から「花ちゃんパパは画家なんだって・・・」という話声をよくききます。公務員とか会社員じゃないのでどんな意味を持って言われているのはわかりませんが、悪い気にはなりません。ゴルフ仲間の懇親会では「画家をしています・・・」というと「・・・えっ!何!ガカ?・・・ガカ?・・・」たいていの人は一瞬ことばに詰まり返答に困っています。それはサラリーマンで時代を器用にくぐり抜けてきた人たちの頭の辞書にはないようで、その反応を私は楽しんでいます。

所属する画壇の運営と作品の質は無関係

多くの美術団体の会の運営は会員の会費でまかなわれています。よって、秋の展覧会シーズンになりますと色々と会員には準備や段取りの仕事が回ってきます。そしてこの仕事は会員のなかでも幹部級の人たちが運営を仕切っています。そこには組織ができあがるので色々と問題や摩擦が起きます。会社ならお給料をもらっていますので上から指示がでますとまず断ったりはできません。断ると左遷人事がまっているのでみんなビクビクしながら上司の顔色をうかがっています。これは理解できますよね。上手く取り持って昇進していけばいいんだから。

お給料をもらっている会社ならともかく、自分の意思で会費を払って所属しているだけなのに、会の幹部の人たちの顔色を窺っているんですね。会長がいっているから仕方がないよとか、この会はほんま上の人がええ加減だからやってられないはとか、ぐちゃぐちゃ愚痴や文句を影で言うんですね。まるでサラリーマンが週末に居酒屋で上司の悪口を肴に飲む風景とそっくりです。挙句の果てに決まって出る文句は「やってられないから来年で私もう辞めるかも」というセリフです。誰も困らないし、すぐ辞めたらいいのによくきく話です。あるいは引き受けた仕事が負担になって作品が思うように描けないとかいう人もいます。役を引き受けなければよいのに、なんか不思議な現象です。

ここには会の運営にたずさわると何かいいご褒美が待っているかもしれないという人間の正直な思いが反映しているのかもしれません。

私の場合は展覧会初日にするオープニングパーティの司会を受け持っています。画家にとって展覧会の1週間はいわばお祭りと私は思っているので自分が楽しくなるように進行をしています。ただそれだけで司会の仕事を引き受けています。それ以上だと私の暮らしに影響が出るので丁重にお断りしています。会の運営係りを引き受けようが、会長や運営幹部がとてもできた人であろうと、どんなにええ加減であろうと自分の作品とは、無関係でありたいと常々思っています。

教えることと創造することは相反する

昔みたいに絵を描くことだけでは食べていけないから画家は教室を開いたり、カルチャーセンターで教えたりしています。まあそれはいいんですが絵を教えるというのはけっこう心の葛藤が起きるんですね。「こんなはずじゃなかった・・・」とか、「個展を開いたのに身内ばかりの評価で、画廊からの企画展の依頼もないし、報道関係からの取材もないし・・・やっぱり教室を続けるしかないか・・・」。なぜかというと美術教師になるために絵を描き始めたんじゃないから。

このように絵を描くことだけで生きていきたいんだけどそれはかなわないので、仕方なく教えているのが現実なんですね。でも、自分は絵を教えているということで世間的にも体裁が整ってくるので、これでいいのかなあと思ってしまいます。多分この時から画家としての誇りや自信は揺らいでいくんだと思います

絵を描く創造行為はいつも独りになって悶々とした行為です。ほとんど誰にも相談などしないし、音楽や文学では表現できない何かをいつも探しながら独創的に描いています。一方、教えるという行為はマニュアル化であり、標準化です。ここに画家としては引き下がることのできない矛盾がでてきます。

なので少しでもそれを緩和するために画材屋さんに勤めたり、美術運送の運転手をしながら絵を描いている人もたまにいますがごく少数でしょう。私の場合は本能的にこのメカニズムをキャッチしていたんでしょうね。美術とはおよそ縁遠いサービス業に従事しながら画業と両立してきました。それもバックヤードの仕事ではなくいつも営業の最前線にいました。「支配人は絵が上手いから宣伝課になぜ入らないの?」という話もたびたび頂きましたが、そういう部署はギャラが安いし昇進もないのでお断りしてきました。

サービス業の営業は想像以上に過酷でしたが、いま思えばそのおかげで高い画材を毎月使うことができたし、何よりも創造するための反動エネルギーが高まってきたのを覚えています。

必死にならず、描きたいときだけに描く

この思いは特に最近強くなってきました。以前はそんなことできるわけがないのに寝食を忘れて1日中描いていたり、いつも頭の中は作品のことでいっぱいだったかと思います。それはそれで私の中では意味があったんでしょうが、いまはなんていうんでしょう、よい言葉がみつかりませんが、描きたい時に普通に描いている感じです。還暦を過ぎてから娘が生まれたり、家内の仕事事情でアトリエの転居を余儀なくされたりと、周辺環境の変化に逆らわず、波乗りのように受け入れてくると、描く姿勢も今の方がしっくりいくんですね。すると描いている途中によく発狂しそうになっていた描く苦しみはなくななりました。またほぼ出来上がっているにもかかわらず、キャンバスを塗りつぶしたりして、大きな壁にぶつかったときの対処が過激でした。心はナーバスになり周囲の家族にも緊張感をばらまいたりして心の平穏とはかけ離れていました。

今はとても穏やかに描いています。なぜこの描き方を今までしてこなかったのか時々思うぐらいです。年齢を重ねてきたし画家としても円熟期にはいってきたのかなといい方に分析して楽天的な描く姿勢がすっかり板についてきました。そして、画風はもとより作品の質も変わってきたようです。絵の具は少ししか使わないし、道具は細い面相筆とペンティングナイフだけです。厚塗りや激しい色調は消えていき、展覧会会場ではほとんど目立たない作品になってきました。ところが変な話ですが、このような画風になってからは不思議なことに展示会場ではいつもよい場所に飾られるようになってきました。

パリに行かなくてもベランダや小さな庭から無限の空(宇宙)を感じるコツ

このお話は少しデフォルメしていますが、パリに行ったらよい絵が描けるというのは幻想です。よく人から「のぶさんはよくパリにいかれるんでしょう・・・」ときかれますが、まだ一度もいったことはありません。

パリやローマには行ってみたいけど行く機会に恵まれなかったのが正直のところです。今は、海外旅行に行けるとしたらどこかリゾート地でのんびりしたいですね。美術館巡りやスケッチよりもリゾートホテルでのんびり時間を忘れて過ごしてみたいかな。

そんなわけで私の描くモチベーションは、ベランダや庭は分かりやすいたとえとして理解して頂き、とどのつまり何回かお話をしてきましたように、日常の暮らしの現場から湧いてきたと言えそうです。家族や地域とのかかわり、また毎日の、繰り返し同じことをしている日々の生活から、ふと自由で奇想天外なイメージを膨らませたり、それが高じて毎夜見る映画のような夢から、無限の空(宇宙)を感じたりしています。

では、どうすればこのように遠くに行かなくても身近なところから絵を描くエスキースが芽生えてくるのかしりたいですよね。それを感じるコツはやっぱり日々の暮らしが作品に出てくるという考え方を強く身体に覚えさせるしかないようです。

その練習です。私達の画業というのは絵を描いている時だけが画業じゃないのでスーパーに買い出しに行く時も、となりに回覧板を私に行く時にも、楽しいというか意味があるという風にとらえてみるしかありません。平凡な暮らしを丁寧に楽しむことがコツと言えば言えそうです。

画家で食べていこうとは思わない

画家と絵描きの職業的なニュアンスは違うように私は思っています。ですから人から「さかがみさんは絵描きさんなんだ・・・」と言われますと「いいえ画家です・・・」と答えるようにしています。絵描きさんは喰う為に似顔絵も描くイメージが私の中にはあるんですね。私が思っている画家とは人から依頼されたりして描くのではなく、自分が描いた作品を人が気に入って大切にして下さるなら手放していく姿勢をいつも持ち続けている人のことを言います。

はなから自分の作品が売れるとは思っていないので、暮らしの生計は他の手段でまかないます。その方法はなんだっていいんですが、できることなら美術とはマ逆の職業からやりくりをされた方がいいと思っています。またパトロンという言い方はあまり好きではありませんが、昔から芸術家の周りにはパトロンが近づいてくるというおとぎ話みたいな話をきいたことがありますが、実に的を得ていると私は思っています。世の中の処世や家計のやりくりとは無縁の環境にいたほうが画家にとっては佳作ができると思っています。

私のところにはときどき画家で食べていくにはどうすればいいのかという質問が届きますが、そういう方にははっきりと「画家ではたべていけないので、他に仕事を見つけてそれと並行して絵も描き続けてください」と答えています。

個展のすすめ

画家は作品ができあがるとどこかに発表しないと意味がないので、グループ展や団体展に出品して他者からの評価を待ちますが、これは間違っているように思えます。グループ展や団体展での発表は展示された時点で終わっていると思ってください。間違ってもなんらかの良い反応は期待しないでください。グループ展や団体展に出品する意味は作品を描き続けるための便利で有効なシステムだけです。なぜなら、グループ展や団体展では個人の作品に対しての反応は極めてまれです。あっても賞などにはいっていますと、自分の身内か関係者から「すごいですね・・・」と言ってもらえる程度です。

では画家は作品ができあがりアトリエにどんどんたまっていくとどうすればいいんでしょうか。このときにこそ個展を開くんですね。個展をすれば反応は良いも悪いも自分にしか返ってこないので、次につながります。おおむね見に来られた人からは良い評価を得られますがそれを真に受けて天狗になることだけは慎んでください。たいていの人は画家のの作品よりもその画家に近づいて最近の近況などを知りたがるケースが多いようです。

それでも個展をすれば、画廊関係者からの企画展の話やマスコミからの取材も発生する場合があります。また作品を気に入ったのでどうすれば購入できますかという話もでてきます。個展の経費ばかりがかさんで何の反応もない場合もありますが、その現実も全部自分だけに跳ね返ってくるので、個展をする意味は画家を続けていくうえでとても有効な、いわば画家の仕事の集大成ともいえるでしょう。