『ワイルドチルドレン』第一回

 その日、日下月子(ひのもとつきこ)はいつものように精神科の待合室で順番を待っていた。退屈なこの時間、月子はたいてい本を読むか目を瞑って空想にふけっている。たまに人なつこい患者に話しかけられそうになるが、たいていは無視していた。というのも、いったん話を聞き出すととめどなく話を聞かされた上、つきまとわれてついには体を触られ、気持ち悪くなったのだ。そんな人ばかりではないとわかっていても、つい用心してしまう。

月子が統合失調症で入院したのは十年以上も前で、もうとっくに治っていて予防のために薬を飲んでいるだけだった。薬も徐々に減らしていきたいと希望しているが、なかなか減らしてもらえない。もう治ってるんだから働けると思ってがんばって働こうとするとうまくいかない。パートに出れば、勤務先の会社が倒産か、事業規模の縮小を理由に解雇され、派遣で働くと、これまた理由もなくクビになる。そのショックで落ち込んではまた家に引きこもってしまう。その繰り返しだった。

何が悪かったのかな。何がいけなかったのかな。何がまちがっていたのかな。

そんなことを思いながら、貯金を取り崩していろいろと習い事をしてみたり、手芸の本を買ってきていろんなものを作ってみたり、絵をかいたり、物語を書いてみたり、いろいろやってみた。何か手に職があれば仕事ができるかもしれない。そう思って資格を取ってみたりもしていた。記憶力を維持するために独学で英語やフランス語も勉強してみた。仕事をしたい焦りと、またクビになって具合が悪くなったらどうしようという不安のあいだで揺れていた。

古本屋で買った文庫本を読んでいると受付の方が騒がしくなった。何事だろうと思っていると、急に院内がバタバタし始めた。第三診の正岡先生の呼び出しがあった。正岡先生は月子の主治医だった。

何だろう、と思っていると、外来診療時間がきた。ひとりひとり名前を呼ばれて扉の向こうに入っていく。

十分ほどして月子の名前が呼ばれた。いつものようにさっさと済ませようとドアを開けると、正岡先生のとなりに白衣を着た男性がいた。額の真ん中にとってつけたようなほくろがあった。ほどよく中肉中背で三十代にも四十代にも見えるがわからない。特にハンサムではないが、親しみやすそうな顔をしている。

「見学だけだから気にしないで」

 正岡先生は言い、いつものようにカルテを出した。

「調子はどう?」

「変わりません」

「じゃあ薬はいつもの通りでいいね」

「はい」

 以上、診察終わり。

「次は何時にする?」

「いつもの時間でいいです」

「じゃあ四週間後の九時に」

 予約表と会計に渡す用紙をもらって立ち上がると、ほくろの男がふいに立ち上がった。

「ちょっと左手を出してみて」

 気軽に言われて月子は気軽に左手を差し出した。彼がその手を握ったとたん、月子の意識が飛んだ。診察室が消えて、はるか上空に舞い上がり、地球を離れ、宇宙空間に投げ出される。無数の星が見え、銀河系が回転しながら飛びすさり、巨大な光に向かって突進していく。

 え? え? 何? ここはどこ?

 気がつくと、月子はほくろ男の手を握ったままぼうっとしていた。あわてて手を放し、周りがちゃんと診察室なのを確かめる。

「何が見えた?」

 ほくろ男に聞かれ、月子はとまどった。宇宙が見えたなんて言ったらまた入院させられる。どうしよう。

「ここにいるのは先生とふたりだけだから、思った通りに言っていいよ」

 ほくろ男は優しく言った。

 月子は正岡先生を見た。

「あの、わたし……」

「いつものように言ってごらん」

 正岡先生は穏やかに言い、月子はほくろ男を見た。

「空と宇宙、それから大きな光」

 月子はまるで当たり前のように口にしていた。誰が聞いても、真昼の妄想としか思えないような言葉だが、見えたのは見えたのだから仕方がない。

 ほくろ男は正岡先生を見た。

「彼女にします」

 ほくろ男が言うと、

「そうですか」

 と正岡先生はほっとした顔で言い、月子を見た。

「よかったね。君はもう精神科に来なくていいよ」

 正岡先生は言い、月子は耳を疑った。次に不安が襲ってきた。

「え、と、その。だって、来なくていいだなんて。でも、年金とか」

 精神科に通院していないと障害基礎年金がもらえない。年金がないと生活していけない。けど、こんなときに年金の話も場違いな気がして、ますますいたたまれない気持ちになった。

「これ、ぼくの名刺。いつでもメールして」

 ほくろ男はまたもや気軽に言い、優雅にきびすを返すと、ふいとドアの向こうに消えた。開いた窓から吹き込んだ新鮮な風のように月子は感じた。

 手元の名刺には「阿弥陀光一(あみだこういち)」と書いてあった。変な名前だ。それに「財団法人ワイルドチルドレン」という怪しい会社名も気になった。

「あの、先生、わたし……」

 月子は言葉が出なかった。言いたいこと、聞きたいことはたくさんあるのに、どれから話していいのかわからない。いつもそうだ。肝心なときに言葉が出てこない。

「年金のことは心配しなくていい。君はまだしばらく『通院していること』にしておくから」

「い、いいんですか?」

 月子は驚いた。

「本当に必要でなくなるまでのあいだ、だけど」

 正岡先生は苦笑いした。

「阿弥陀くんはわたしの後輩で、精神科医でもあるんだ。主治医が変わるだけと思ってくれていい」

「そうなんですか」

 月子は少しほっとした。

「それも必要でなくなるまでのあいだ、だけど」

 正岡先生はふと優しい目をした。

「こうやって送り出せるなんて、わたしは運がいい。ほとんどの人は籠の中から出られないでいるから」

 月子は部屋に寝転がってぼうっとしていた。ほくろ男、阿弥陀に手を握られた瞬間に白昼夢に陥ったのを思い出し、目をぎゅっと閉じる。統合失調症で入院したときもこんなことはなかった。あのときは無数の声が聞こえただけだ。

 今まで、どこからともなく声が聞こえたり、いろんなものが見えたりしても黙っていた。病気が再発したと思われるのが怖かった。そういうときは薬を飲んで寝ていればおさまった。やっぱり調子が悪かっただけなのだ、と思っていた。幻覚、幻聴……。統合失調症の症状だ。あんなものに振り回されてまた人生を狂わされるのはまっぴらだ。今度こそちゃんと仕事をして、統合失調症から社会復帰したと胸を張って言えるような自立した人間になるのだ。

 しかし、阿弥陀に握られたときに見えたものは、これまで見たものとは違っていた。あんなものは今までに見たことがなかった。違う場所に入ったような感覚だった。いや、あれは外ではない、内側だ。いや、内側でもない。

 あそこはどこ?

 考え込んで、ふっと頭を振った。振りはらおうとしたがそれは月子の中にしっかりと根を下ろしてしまっていた。

 いやだ。また病気になる。

 不安に胸が締め付けられ、泣きたくなりそうになったが、正岡先生はもう精神科にこなくていいと言った。

先生に頼れないなら誰に相談したらいい?

 そのとき、名刺を思い出した。阿弥陀は精神科医でもあると正岡先生は言った。阿弥陀なら何か知っているかもしれない。

 月子は起き上がり、パソコンを立ち上げた。

まずは「ワイルドチルドレン」がどんな会社か調べてみよう。

月子はインターネットエクスプローラを立ち上げた。名刺に書いてあったアドレスを打ち込み、エンターキーを押し、トップに躍り出た「ワイルドチルドレン公式サイト」を開く。

「科学と芸術を統合し、ワイルドチルドレンを世に送り出すことによって地球環境再生を目指す」

月子はくらっときた。

わけがわからない。

科学と芸術の統合? ワイルドチルドレン? 地球環境再生? 何が何で、どこがどう繋がっているんだ?

「ワイルドチルドレンについて」と書いてあるボタンをクリックすると、小さな字でぎっしりと解説があった。ワイルドチルドレン社は試験的に紀伊半島の外れに真宇樹村(まうじゅむら)を作った。そこに全国から「問題児」と言われている子供たちを集めた。親の手に余る、あるいは、親がどうしても育てきれない子供ばかりだ。中には成人した大人も入っていた。引きこもりであったり、人との関係をうまく築けない人。社会に適応できず、行き所を失った人たちを集めていた。そこで一大実験をするのだという。

月子はドキッとした。

ある意味、自分もそのひとりではないか? 社会に出て働こうとしてもどうしてもうまくいかない。自分ではまともだと思うのに、どういうわけか周囲から浮いてしまう。周りに合わせようとがんばってもいつのまにかはじき出される。だから阿弥陀はわたしに声をかけたのか? 病院から出てまた別の病院に移されるだけ?

そう思うと悲しくなった。

さらに読み進めていくと、宇宙科学、物理学の話になり、精神医学、心理学の話になった。環境学の話、宗教の話、風水の話、さらにはスピリチュアルについての考察もあった。ある程度は月子も理解できたが、あまりにも難しすぎた。

ホームページに書かれてある膨大な情報だけでも意味がわからなかったが、さらに、参考書籍が載せられてあった。

『遺伝子に刻まれた原始の記憶』

『ネイティブヒーラー』

『創世記とレムリア、ムー、アトランティスを解明する』

『多元構造の宇宙モデル』

『人類が目覚めるとき』

?????

どれも未知の世界だったが、圧倒される魅力があった。特に「遺伝子に刻まれた原始の記憶」は読んでみたい気がした。海外の本もあった。まだ翻訳されていない原書もあった。本好きの月子には魅惑的なサイトだ。

そしてワイルドチルドレン社が推進している「ワイルドチルドレン計画」。

「ワイルド」とは野育ちの、原始の、という意味のように書いてあった。どうやら「野生を蘇らせた子ら」という意味のようだ。スピリチュアルの世界では「アースエンジェル」「光の子」という意味にも取れるらしい。両者は極端に結びつかないような気がしたが、不思議としっくりきた。月子の想像を遙かに超える壮大な計画のようだ。真宇樹村でいったい何が行われているのか。

行ってみたい。

だけど、こんなことに関わってまた調子が悪くなったら……。

月子はためらいながらメーラーを立ち上げ、阿弥陀にメールを打った。

話を聞くだけだ。「ワイルドチルドレン計画」について。怖くなったら途中で引き返せばいい。

しかし、心の一方で引き返せないことを感じていた。もう精神科に来なくていいと言い渡されたのだ。帰るところがない。背後の扉は閉ざされ、目の前の扉が開いている。だったら前に進むしかない。

月子は阿弥陀に会うことにした。他に、今の状況から抜け出せる道がなかった。



『ワイルドチルドレン』第二回

 オンタリオ州スペリオル湖の畔にある「お星さまの家」にジョン・ブライトがやってきたのは、雪どけが始まった初春の頃だった。ジョンは八歳。目ばかりがぎょろっと大きい痩せた男の子だった。彼の母親はメアリー・ブライト。身なりは質素だったが、ほっそりとして背が高く品の良さそうな女性だった。ジョンはメアリーの手をしっかりと握っていた。

 ベンジャミン・ロードはふたりを中に招き入れた。

 ジョンは落ち着かなげに当たりを見わたしているが、メアリーは穏やかに見守るだけで何も声をかけない。

 ベンはふたりに紅茶を出した。メアリーは上品に紅茶をすすったが、ジョンは紅茶のカップをじっと見つめたまま触ろうともしない。それでもメアリーはジョンに紅茶を飲むように言わず、ただ穏やかに見守っているだけだった。ベンはどこか不思議な気持ちでこの親子を見つめた。

「ジョンにはどのような問題があるのですか」

 ベンはたずねた。

「何も。この子はとてもいい子ですわ」

 メアリーは愛おしげにジョンを見ながら静かに言った。

「では、なぜここに?」

「好きなだけ彫らせてやりたいんです」

「彫る?」

「ええ。この子は彫るんです」

「それだけですか?」

「はい。ここなら好きなだけ彫らせてもらえると思って来ました。彫らなければ、この子は死んでしまいます」

 メアリーは話した。

 ジョンの父、メアリーの夫のリチャード・ブライトは彫刻家だった。しかし、自分の作品が認められず、売れないために、様々な職を転々としながら、作品を作り続けた。ジョンが生まれるとリチャードはとても喜んだ。歩くより先に彫刻刀を握らせ、木を彫らせた。メアリーは最初、危ないからやめてほしいと頼んだが、リチャードは聞かなかった。ジョンが彫った最初のものを見て、「この子は天才だ。今に有名な彫刻家になる」と言い張った。

 会社から帰ると、リチャードはジョンを膝に、彫刻刀を持つ手に手を添えて、熱心に彫り方を教えた。

 無我夢中のリチャードと反対に、メアリーは心配だった。

 ジョンは生まれてから一度も声を出さなかったのだ。医者に連れていったが、どこにも異常はなかった。耳も聞こえている。声帯にも異常はない。ジョンはリチャードの声を聞き、メアリーの声を聞いていた。それはわかった。しかしジョンは声を出さない。かわりに手を動かす。

 五歳になり、いくらなんでもこのままではいけないと、メアリーはジョンを保育園に連れて行った。ジョンは保育園に着くや、周りを珍しそうに見わたした。そして飼育小屋のウサギを見つけると、かけよってそれをじっと見つめた。メアリーが声をかけても先生が声をかけても動かない。友だちの輪の中に入れようとすると暴れ出す。メアリーがいくら言っても、いっしょにお遊戯したり歌を歌ったりすることはない。ただ、ウサギををじっと見る。そして家に帰ると、角材を持ち出し、彫刻刀で彫ったのだ。飼育小屋のウサギを。それは子供が作ったものとは思えないほど正確だった。

 リチャードは喜び、ジョンを世に出すのだとはりきって家を飛び出したところ、車にはねられた。即死だった。

 悲しみに打ちひしがれていたとき、ジョンはメアリーに言った。

「泣かないで。おとうさんはここにいる」

 ジョンは自分の両手を差し出してメアリーに言った。

 メアリーは驚いた。ジョンが初めて口をきいたのだ。

〈おとうさんはここにいる〉

 ジョンの差し出した手をメアリーは握った。リチャードがジョンを膝にのせ、彫刻刀を持つ手に手を添えていた姿を思い出し、メアリーの胸は熱くなった。

 リチャードはここにいる。ジョンの手に。

 しかし、それきりジョンは再び言葉を閉ざした。

 メアリーはジョンが作ったという作品をいくつか見せた。ウサギ、犬、猫、ネズミ……。どれも子供が彫ったとは思えないほど正確だった。正確な上、今にも動き出しそうなほど生き生きしていた。

 若干八歳にして、ジョンは見たものを正確に形にすることのできる彫刻家だった。

 サヴァンだ。

 ベンは直感した。

 サヴァン症候群。

 噂には聞いたことがある。しかし、本当に?

「今、何か彫らせることはできますか?」

 ベンはたずねた。

「この子は彫りたくなったらいつでも彫ります。わたしは角材を買ってきてジョンに与えます。それだけです。だけど、学校にも行かないこの子を世間は認めません。言葉はわかるけれどジョンは字が読めないのです。簡単な計算はおろか、数を数えることもできません。どんなに教えようとしても、ジョンはなかなか覚えないんです。しかも、彫り始めると食べることも寝ることも忘れて没頭してしまいます。まるで、彫るためだけに生まれてきたように彫り続けるのです。リチャードが、自分にできなかったことをこの子にさせているみたいです」

 じゅうぶんだった。

 ベンはブライト母子を「お星さまの家」に住まわせることに決めた。

 メアリーの言ったとおりだった。ジョンは興味のある生き物をじっと見つめ、それから角材を持つと、狂ったように彫り始める。そして驚くほど正確で生き生きとしたものを彫り上げる。作品が仕上がると、ジョンは必ずメアリーに見せた。メアリーはまるで夫に言うように、「すばらしいわ」とか「すてきね」と心から褒めた。するとジョンは嬉しそうに顔を輝かせた。

 次々とたまっていく作品を保管するため、ベンは新しい小屋を建て、棚を作り、そこにジョンの作品を並べた。しかし、ジョンはいちど自分が作り上げた作品を二度と見ることはなかった。作り、母親に見せて、褒められたらそれで満足なようだった。

 ベンはジョンにもっといろんな作品を作らせたくなり、動物園やサファリパークに連れて行った。ジョンの目は生き生きと輝き、動いている動物たちに見入った。そして「お星さまの家」に戻るや、無我夢中で作品を作った。

 これだけの作品、世に埋もれさせるのはもったいない。

 ベンは知人に連絡を取り、彫刻家、工芸家、美術評論家を「お星さまの家」に招き、ジョンの作品を見せた。

 子供の作った作品なんて、と、最初はバカにしていた彼らは、ジョンの作品を見るなり黙り込んだ。ベンはジョンが作品を作っているところも見せた。もの凄いスピードで彫っていくジョンの手を見て、誰もが息を飲み、言葉を失った。

 ジョン・ブライトの名はすぐに広まった。ジョンの作品は飛ぶように売れ、次の作品を待ち望まれるようになった。あっという間に一財産を築き上げたジョンだったが、ブライト母子にとってはそんなことはどうでもよいことのようだった。ジョンのおかげで「お星さまの家」は有名になり、連日人が訪れるようになった。ベンは、ブライト母子のためになにかできないかと思い、新しい家を建てようと申し出たが、メアリーは断った。メアリーの望みはひとつだけ。ジョンが好きなだけ彫ることができる環境を与えて欲しいということだった。

 ベンはメアリーの望みに従ってジョンのために工房を作り、ジョンが望むだけ彫刻ができるように取りはからった。

 ジョンが十二歳のとき、メアリーは急な病に倒れ、この世を去った。

 ひとり残されたジョンは、何日も湖の畔に座り込んでいた。まるで魂の半分を持って行かれたように、うつろな目をしていた。何も食べようとせず、眠ろうともせず、ただふらふらと工房近くの森の中をさまようだけだった。気晴らしに動物園につれて行ったが、ジョンはただぼうっと動物たちを眺めているだけだった。

 ベンはジョンの才能より、ジョンの体の方が心配だった。彫刻なんかどうでもいい。作品なんか作らなくてもいい。ジョンの目が元通りに生き生きと輝くのを見たかった。作品が仕上がり、母親に見せて褒められたときの輝くような笑顔を見たかった。

 どうしたらいいのかわからず、ふらりと立ち寄った画廊に入ったベンは、ある一枚の絵の前で立ち止まった。『聖母マリア』というありきたりの題材で描かれたその絵は、どこか面差しがメアリーに似ていた。画家の名前は知らなかった。画廊主にたずねると、その画家は『聖母マリア』を最後に筆を折り、真冬の海に投身自殺したという。

 曰く因縁着きの絵だったが、その絵を見ていると、やはりジョンの母親のメアリーの姿が思い浮かんだ。優しくも慈愛に満ちた眼差しと表情が胸を打った。

 ベンはその絵を買い、ジョンの工房に持って行った。そして散歩から戻ったジョンに言った。

「おかあさんはここにいるよ」

 ベンが絵を見せると、ジョンはかけよった。そして『聖母マリア』の前に何時間も座った。

 やがてジョンはゆっくりと立ち上がると、彫刻刀を持ち、角材を彫り始めた。最初はゆっくりと、何かが浮かび上がってくるのを待つように慎重に動いていた手が、だんだんと早くなり、ついにいつもの速さに戻った。

 角材から生み出されたのは鳥だった。ジョンはそれを『聖母マリア』の前に持って行き、まるで母親に見せるようにそれを自慢げに見せた。そしてニッコリ笑うと、それを倉庫に持って行った。

 それからというもの、ジョンは新しい作品を作るたびに『聖母マリア』に見せるようになった。かつて母親に見せていたように。そして幸せそうに笑っては倉庫に持って行く。それの繰り返しだった。

 ジョンの作品は飛ぶように売れ続け、山のような財産を築いた。

 しかしその財産にジョンが興味を示すことは全くなかった。彼はただ毎日のように森を歩き、目にするものを記憶しては、角材に命を吹き込む。それを『聖母マリア』に捧げる。それだけだった。ただひたすら彫り続けるだけだった。ベンはときどき彼がきちんと食事をしているか、睡眠を取っているか、様子を見るだけだった。ときたま動物園やサファリに行きたいかたずねるだけだった。水族館にも植物園にも連れて行った。ジョンの創作欲を刺激するためだ。

 ただ彫り続け、作品を作り続けるだけのジョンは、それだけで足りているようだった。

 二十一歳のある日、ジョンはベンの手を引っ張った。ついてこいという目をしている。

 ベンは彼について森の中に入っていった。そしてある大きな木の前で立ち止まったジョンは、その木を指さした。

「おとうさんとおかあさん」

 ジョンは言った。

 ベンは意味がわからなかった。

「おとうさんとおかあさん」

 ジョンは同じ言葉を繰り返した。そして木に触り、抱きつき、訴えるような目でベンを見た。

 ふいにベンは、ジョンがその木から何かを生み出そうとしているのに気がついた。小さな角材では表現しきれない何かを生み出そうとしている。

 ベンは森の所有者に頼み、金を払い、木を切り倒す許可をもらった。そしてその木をジョンの工房に運ばせた。

 大きな丸太を前にしたジョンは、何度か大きな深呼吸をすると、ノミをふるい始めた。一度やりはじめると仕上げるまで誰の声も耳に入らなくなるジョンだ。

ジョンは朝も昼も夜も彫り続けた。ベンがむりやり休ませなければ、食べることも忘れてしまうほどの集中力だった。夜も寝ているとは思えなかった。心配になって夜中に様子を見に来たときも、ジョンは彫っていた。まるで見えない何かがのりうつったように、ジョンはノミをふるい、彫刻刀で細部を彫り続けた。

かつて丸太だったものはだんだんとその様相を変えていった。それはこれまで見たこともないほど奇妙な形をしていた。生き物でもない。植物でもない。しかし、そのどれもでもあるような。

ジョンは狂ったように彫り続ける。形はどんどんと変わっていく。食べることも眠ることも忘れて彫り続けるジョンの体は痩せていった。ほおはこけ、髪も髭も伸び放題になったが、目だけはギラギラと輝いている。見えない力が彼を駆り立てているようで、ベンは止めることはおろか、近づくこともできない。恐ろしいほどの気迫が漲り、まるで巨人が地球という巨大な塊を彫っているようにベンには見えた。

何かとてつもないものがこの世に生み出されようとしている。

ベンは震え、雷に打たれたようにその場にへたりこみ、ただ祈った。祈るしかなかった。

そして、それは終わった。

ジョンは彫刻刀を落とし、ふらふらと数歩あとずさると、仕上がったものを見て満足げに微笑んだ。

それは何とも形容しがたい不思議なものだった。この世の森羅万象をひとつに凝縮したようなものだった。今にも生きて動き出しそうなもののようにも見えた。

ジョンの体がゆっくりと仰向けに倒れるのを見たベンは、急いで駆け寄った。

「ジョン!」

 ベンはジョンの体を抱き起こした。

「行かなきゃ」

 ジョンはかすれた声で行った。

「行くって、どこへ?」

 ベンはたずねた。

「あそこ」

 ジョンは震える手で自分の作ったものを指さした。

 ベンはそれを見た瞬間、息を飲んだ。それはこの世のものとは思えない美しい輝きを放っていたのだ。

あまりの美しさにベンの心は震え、その荘厳さに打たれて目を閉じた。熱いものがこみあげてきて、涙が勝手にあふれ出す。腕の中にいるジョンの魂が体を抜け出して、そこに向かっていくのをベンは感じた。

「神よ、彼をこの世に使わしてくださり、感謝します……」

 ベンは思わず呟いていた。

「ジョン・ブライトの最後の作品がここにある」

 阿弥陀は月子を博物館の最上階の展示室に案内してくれた。

 直径三メートルはありそうな巨大なそれは、一見するとグロテスクな塊のようだったが、よく見ると様々な生き物や植物が密集し、組み合わされ、溶け合い、凝縮されているようだった。ベンの言うように、この世の森羅万象を凝縮したようなものだった。

「君なら見えるはずだよ。あれが」

 阿弥陀は言い、月子は首をかしげた。

「あれ?」

「この前は見えたんだろう? あれが」

 あれあれって何だろう、と思っていると、

「肉体の目で見るんじゃない。もうひとつの目で見るんだ」

 阿弥陀は言った。

 月子はジョン・ブライトの作品に目を向けた。

 ゆっくりと、もうひとつの知覚が開いていく。

 突然、月子の意識は宇宙空間に投げ出され、目の前に迫る巨大な光に飲み込まれた。温かく愛にあふれたそれは、ただそこに在った。そしてその巨大な光の周囲を無数の輝く生き物が飛び交っている。それらは月子を迎えて喜びにあふれていた。

 わたしはいつでも「ここ」に来れる。

 月子はなぜか確信できると同時に、大いなる安らぎが満ちてくるのを感じた。

 ありがとう。また来るわ。

 月子は心の中でそう言い、地上に降りてゆっくりと現実に戻った。

「ジョン・ブライトの死後、世界中からジョンのような子供を持った親たちがベンの元を訪れるようになった。ベンは子供たちにジョンの作品を見せた。するとその子供たちは次々に眠っていた才能を開花させた。計算の速い子もいれば、記憶力に優れた子もいた。知能だけでなく、運動能力を発揮した子供も現れた。お星さまの家は、天才をこの世に生み出す家として世の中に知られ、ベンの元にたくさんの資金が集まった。ベンは最初、お星さまの家にやってくる子供たちを星の子供たちと言っていたのだが、その子供たちを観察していると、いろんなことがわかってきた。子供たちは例外なく、『原始の記憶』を持ち、人が本来もっていた野生の感覚を目覚めさせていたんだ。そこで、星の子供たちをワイルドチルドレンと改めた」

「じゃあ、ワイルドチルドレン計画の発祥はオンタリオ湖畔にあるお星さまの家で、創始者はそのベンジャミン・ロードなんですか?」

「そうだ。ベンジャミン・ロードの研究はあちこちで引き継がれ、そしてこのワイルドチルドレン社日本支部でも続けられている」

「ワイルドチルドレン計画は世界規模で行われているんですか」

 月子は驚いて言った。

「世界規模を目指しているが、今のところ参加国は少ない」

 阿弥陀は少し残念そうに言った。

「世界はまだ目覚めていないから」

 言ったとたん、阿弥陀の額からぽろっとほくろが落ちた。

 月子はあっと驚いた。

「それ、つけぼくろだったんですか?」

「まあね」

 阿弥陀は落ちたほくろを拾い上げてポケットに入れた。

「どうしてそんなものを額につけてるんですか。何か意味があるんですか?」

「これをつけているとすぐに顔を覚えられるから」

 阿弥陀は反対側のポケットから新しいほくろを取り出し、薄紙を剥がしてそれを額に押しつけた。シールで簡単にくっつくほくろのようだ。

「似合うだろ?」

 無邪気に言われ、月子は力なく笑った。